香りを科学で紐解く ーVol.2
コラム
2025.06.24

香りを科学で紐解く
ー忙しい毎日に効く、食と精油の香りの習慣 ー
<前編>Vol.2

現代社会を生きる私たちは、慌ただしい都市生活の中でたくさんのストレスに晒されています。目まぐるしく変化する生活の中で無意識のうちに疲れが蓄積し、心やからだのバランスが乱れてしまうことも。このコラムでは都市型生活者 (※)とその取り巻く環境に対して、植物や精油の持つ「香りの力」がどのようにしてポジティブな影響をもたらすのか、専門家の方々を迎え科学的な視点で紐解いていきます。
Vol.2は大学で准教授を務めながら「食品の香り」と「脳の機能」について研究を行っている小長井ちづる先生にお話を伺います。

(※) 都市型生活者
ここでは高度に産業化した社会で生きている現代人を指す。

小長井 ちづる(こながい ちづる)
Profile 小長井 ちづる(こながい ちづる)

十文字学園女子大学 人間生活学部健康栄養学科 准教授。食品生理学や栄養学を専門に、食品の味や香りが脳の機能に与える影響に関する研究に従事。食の研究を通して健康を維持することやアンチエイジング、生活の質の向上に貢献。著書に「イラスト食品学各論」(東京教学社)、「コーヒーの科学と機能」(アイ・ケイ・コーポレーション)、「アンチエイジング・ヘルスフード-抗加齢・疾病予防・健康長寿延長への応用」(サイエンスフォーラム)など。

小長井先生は長年「食品の香り」と「脳の機能」について研究をされていますが、このテーマに出会ったきっかけやこの分野に着目した理由について教えてください。

まず、この研究の入り口に立ったのは大学院生時代。当時、私は食品の加熱によって生成される成分の機能性についての研究をテーマとしていました。研究試料である大豆の焙煎をしていたところ、指導教授が思いつきで「これはいい香りだから、きっと脳にいいに違いない」と仰ったんです。そこで別の大学で脳機能について指導してくださる先生をご紹介いただいて、初めて脳波について学びました。指導教授が仰ったとおり、香ばしい香りを嗅いでいるときには脳のはたらきが安定するという結果が観察され、それがきっかけで様々な食品の香りについて興味をもつようになりました。食品の香りがおいしさに関わるということは多くの方がご存知のはず。私が研究を始めた頃も、食品の香りの「おいしさ」以外の機能にフォーカスした研究はまだ少なかったんです。そこで食品の香りの新しい機能性を見出すことができれば、食品ひいては香りという分野で新たな可能性が開けるんじゃないかと考えました。

香りを科学で紐解く ーVol.2

生活者の私たちにとって「食品=味わうもの」というイメージが強く、香りはあくまでおいしさを高めるものだという印象がありました。実際にどのような食品を使って研究を行っているのでしょうか。

これまでにお茶やアルコール飲料、乳製品、オレンジや柚子といった柑橘類などさまざまな食品の香りで研究を行ってきました。以前、コーヒー豆の香りに関する研究もしたのですが、同じ種類の食品でも品種によって香りが異なれば脳に与える影響も変わり、実生活でもポジティブな影響をもたらすものがあるのではないかと考えたんです。まず代表的な6種類のコーヒー豆を選び、その抽出液の香りを嗅いでもらいながら脳波(α波)を測定してみました。するとコーヒー豆の種類によって、やはり脳波に違いが見られたんです。

食品の中でも特にコーヒーは銘柄が豊富ですよね。その細かな香りの種類によって脳のはたらきまで変わったとは驚きです。α波の量の違いによって、脳のはたらきにどのような違いが現れるのでしょうか。

脳のはたらきの状態によって、多く出現する脳波も変わってくるのですが、α波とは脳波を構成する成分のひとつ。目を閉じて安静にしているときに記録される脳波のうち、周波数が8~13Hzのものを指していて、脳のはたらきが安定して心や身体が落ち着いている時に多く観察されます。無臭の蒸留水を基準として比較すると、ガテマラ、ブルーマウンテンはα波が多く観察され、これらの香りを嗅いでいるときには脳のはたらきが安定するという結果が得られました。脳は全身をコントロールする場所ですから、その機能が安定するということは心身をリラックスした状態に導くことにつながります。香りを嗅いですぐに脳の状態が変化して、その結果、心や身体の状態にまで影響が及ぶというのも興味深いですよね。研究を行う前にコーヒー豆の種類によってある程度の違いはあるだろうと仮説を立てていたんですが、ここまで差がみられるとは思っていなかったので私自身も驚きました。

香りによって脳のはたらきに差が出るんですね。心が安定しリラックスした状態というのは想像がつきますが、その反対に目が覚めたり、気分がキリッと切り替わる香りもあるのでしょうか。

もちろん反対の効果を持つ食品やその香りもあります。コーヒー豆の種類だけをみてもその効果には違いが見られるんです。先ほどの実験と同じ6種類のコーヒー豆を使い、その香りを嗅ぐことによって脳のはたらきがどれほど活性化するのかを測定しました。被験者の方々にコーヒーの香りを嗅ぎながら高音と低音を聞き分ける課題を行ってもらい、その時の脳波を記録したところ、ブラジルサントスやマンデリンの香りでは脳における情報処理機能を反映するP300という脳波の出現までの時間(潜時)が速まるという結果が得られたんです。つまりこれらの香りを嗅いだときには脳のはたらきが活性化したということ。同じコーヒーという飲み物であっても、豆の種類によって香りが異なると反対の効果が得られるのも面白いですよね。

香りを科学で紐解く ーVol.2

数ある食品の中でもコーヒーは身近ですし、ちょっとした休憩時間にも取り入れやすいですよね。具体的に「このシーンではこの種類のコーヒーを」というような、おすすめの取り入れ方があれば教えてください。

メーカーや焙煎度によっても香りには差があるのでこれが最適であると一概には言えませんが、ちょっと一息つきたい時やプレゼン前などで落ち着きたい時はガテマラやブルーマウンテン、仕事や勉強前に気持ちを切り替えたり集中力を高めたい時にはブラジルサントスやマンデリン、というように香りで使い分けるのもおすすめです。コーヒーに含まれるカフェイン=眠気覚ましや集中力アップというようなイメージを持たれる方も多いのですが、摂取しすぎると眠れなくなったり、神経が過剰に刺激されて興奮や不安などを引き起こすこともあります。しかし、その香りだけを利用すれば、カフェインの影響はありません。香りを嗅ぐだけで脳にダイレクトにはたらきかけるので、カフェインを身体に取り込まずに効果が得られます。味でコーヒーの種類を選ばれる方も多いと思いますが、なりたい気分に合わせて香りで選んでみるのもいいかもしれませんね。

香りを科学で紐解く ーVol.2

今回はコーヒーの種類別で見られる脳のはたらきについて研究結果をお伺いしましたが、現在取り組んでいる研究や興味のある分野はありますか。

今までの研究と同様、「食品の香り」という分野から軸はぶらさずに和食材の香りの研究を深めていきたいと考えています。私自身、教員として学生に食について教える立場ですが、日本で暮らしているのに身近な和食材の良さについて意外と知られていないこともたくさんあることに気がついて。食を通して四季の変化を楽しむことができるのが和食のすばらしさのひとつですが、食卓に並ぶお味噌汁やお漬物から和菓子まで、季節の食材の香りがさりげなく取り入れられていますよね。これらはもちろん、風味を添えたり食欲を高めることを目的に使われているわけですが、それだけでなく、きっと昔から私たち日本人にもたらしてきた心や身体への影響もあるんじゃないかと。そこを深掘りしていくことで、身近な食品の香りのさらなる可能性を見出すことができる気がするんです。

ーコーヒー豆の種類によって、脳のはたらきが変化する ー ーコーヒー豆の種類によって、脳のはたらきが変化する ー

実験紹介 ーコーヒー豆の種類によって、脳のはたらきが変化する ー

 

[上図] コーヒーの香りを嗅いでいる際のα波量(10.5-11.0Hz)の豆の種類による比較

 

脳のはたらきが安定している時に多く観察されるα波を測定。

代表的な6種類のコーヒー豆の抽出液の香りを嗅いでもらうと、ガテマラとブルーマウンテンにα波が多く観察されました。よってこのふたつの香りを嗅いでいる時には脳のはたらきが安定し、心や身体がリラックスしているといえます。
(n=10、平均年齢22.8 ± 0.6歳、女性。上方が前頭部、下方が後頭部で、暖色系の色の部分が多いほどα波出現量が大きいことを示している。)

 

 

[下図] コーヒーの香りを嗅いでいる際のP300潜時の豆の種類による比較

 

脳が情報を処理する速度を観察するために、P300という脳波を指標として測定。
P300潜時と呼ばれる指標が短い方が脳が情報を処理する機能が高まっている状態。

無臭の状態と比較してブラジルサントスやマンデリンの潜時が短くなっているため、このふたつの香りを嗅いでいる時に、頭がよく回転していることが伺えました。
(n=9、平均年齢21.2 ± 2.9歳、女性。)

edit&interview 山本菜美子
photo 植田翔

参考文献

・古賀良彦, 小長井ちづる, 濱田麻由子, 黒坂英夫, コーヒー豆の種類の違いによる香りのリラクゼーション効果の差異, 日本味と匂学会誌, 8巻3号p.343-346, 2001
・小長井ちづる, 古賀良彦, コーヒーの香りが認知機能に与える影響−豆の種類による効果の差異の検討, 日本味と匂学会誌, 9巻3号p.561-564, 2002
・小長井ちづる, 古賀良彦,食品の香りが脳機能に与える影響の生理学的評価ー嗜好飲料の香りが脳機能に与える影響, AROMA RESEARCH, 6巻4号p.326-333, 2005
・小長井ちづる, 食品の香りが脳機能に与える効果, におい・かおり環境学会誌, 48巻5号p.364-372, 2017