香りを科学で紐解く ーVol.2
コラム
2025.07.31

香りを科学で紐解く
ー忙しい毎日に効く、食と精油の香りの習慣 ー
<後編>Vol.2

現代社会を生きる私たちは、慌ただしい都市生活の中でたくさんのストレスに晒されています。目まぐるしく変化する生活の中で無意識のうちに疲れが蓄積し、心やからだのバランスが乱れてしまうことも。このコラムでは都市型生活者 (※)とその取り巻く環境に対して、植物や精油の持つ「香りの力」がどのようにしてポジティブな影響をもたらすのか、専門家の方々を迎え科学的な視点で紐解いていきます。Vol.2でお話を伺うのは、大学で准教授を務めながら「食品の香り」と「脳の機能」について研究を行っている小長井ちづる先生です。前編の「食品の香り」に続き、後編では「精油の効果」について掘り下げていきます。

(※) 都市型生活者
ここでは高度に産業化した社会で生きている現代人を指す。

小長井 ちづる(こながい ちづる)
Profile 小長井 ちづる(こながい ちづる)

十文字学園女子大学 人間生活学部健康栄養学科 准教授。食品生理学や栄養学を専門に、食品の味や香りが脳の機能に与える影響に関する研究に従事。食の研究を通して健康を維持することやアンチエイジング、生活の質の向上に貢献。著書に「イラスト食品学各論」(東京教学社)、「コーヒーの科学と機能」(アイ・ケイ・コーポレーション)、「アンチエイジング・ヘルスフード-抗加齢・疾病予防・健康長寿延長への応用」(サイエンスフォーラム)など。

前編では「食品の香り」にまつわる研究のお話を伺いましたが、食品以外にも効果を発揮してくれる香りやそれを取り入れるツールはありますか。

精油は自宅で気軽に取り入れられますし、多くの種類があり各自の好みやその時の気分に合わせて使い分けがしやすいのでおすすめです。最近は、精油の専門店やアロマテラピーが受けられるサービスなども一般的になりましたが、精油が日本で広く認知されてブームになったのは30年ほど前。当時はリラックスすることを目的として取り入れる方が多かったようです。私自身も、香りの研究に関わるようになるよりずっと前から、香りを生活に取り入れることに興味をもっていました。前編でお話したように、指導教授の何気ない一言がきっかけで食品の香りが脳のはたらきに与える影響という研究テーマに出会いましたが、この時に学んだ研究手法を使って広く香りの分野の活性化に貢献できないかと考え、精油の効果についても研究するようになりました。

香りを科学で紐解く ーVol.2

食品の香りだけでなく精油についても研究されていたんですね。前編ではコーヒー豆の香りが脳に与える影響についてお伺いしましたが、精油の香りを嗅いだ時も脳に何かしらの影響があるのでしょうか。

これまでにさまざまな精油を取り上げ、脳のはたらきに与える影響や、睡眠に対する効果を研究してきました。そのひとつとして、以前、ラベンダー精油の濃度の違いが脳機能に与える影響の差についての研究結果を報告しました。精油を使用したことがある方なら感じられたことがあるかもしれませんが、原液を希釈すると香りの感じ方も変わってきます。精油は、植物の花や葉、果実、樹皮などから抽出され、たくさんの種類がありますが、同じ種類の精油でも取り入れ方や香りの強さによって脳のはたらきに与える影響も異なるのではないかと考えたのがきっかけです。

研究にあたって選んだのは、精油の中で特にポピュラーで、一般的に高いリラックス効果があると言われるラベンダー。ラベンダー精油の原液を0.1%(1000倍希釈)、1.0%(100倍希釈)、10%(10倍希釈)の3段階に薄めたものと、無臭対照の匂いを嗅いだ時に、脳における情報処理機能がどのように変化するのか測定しました。

この研究でも、前編でお話したP300という脳波を用いています。P300は、波形が速く、大きく現れるほど、脳が情報を処理する機能が高まっているといえます。被験者の方にそれぞれの香りを嗅いでもらうと、無臭の場合と比較して、0.1%に薄めたラベンダー精油の匂いを嗅いだ時には、P300潜時が短くなったんです。また、波形の振幅(深さ)に着目すると、0.1%と1.0%の濃度では無臭の場合より振幅が大きくなり、濃度の高い10%の時と脳の情報処理能力に差が出てくることがわかりました。

濃度を薄めた方が情報を処理する機能が高まるとは意外でした。

前編でお話したように、香りの種類の違いによって脳のはたらきが変わることは想像できるかもしれませんが、濃度によってもはたらきに差が出るのは興味深いですよね。前回のコーヒー豆の実験と同様に、P300の測定に加えて、脳のはたらきが安定している時に多く観察されるα波も測定しましたが、無臭の場合との差は見られなかったんです。これまでにさまざまな研究者が、脳波や自律神経活動を指標としてラベンダー精油のリラックス効果について報告をしていますが、本研究で精油を薄めて用いた場合にはその効果が観察されませんでした。つまり、ラベンダーの精油は比較的高い濃度で使用すると脳のはたらきを安定化させ、薄めて使用すれば脳が情報を処理する機能を高める、すなわち脳機能を活性化することができるといえます。

やはり得られる効果も変わってくるんですね。食品から精油まで、私たちが日頃から無意識に触れている香りが脳へここまで影響しているとは思いもしませんでした。

食品や精油の香りに限らず、匂いの情報は嗅ぐとすぐに脳の嗅覚を感じ取る部分へ届きます。これまでにお話しした脳のはたらきに対する効果もそうですが、匂いを嗅ぐことで気持ちが動いたり、記憶が蘇ったり…このような経験は、みなさんご経験があるのではないでしょうか。それは嗅覚の情報を受け取る部位と、記憶や感情をコントロールする脳の部位が直接連絡をしているためと説明されています。香りの種類によって脳のはたらきが変わったり、記憶や感情まで動かされるのは面白いですよね。

香りを科学で紐解く ーVol.2

先生もプライベートで精油を使っているとお伺いしましたが、疲れを抱えやすい現代人におすすめの香りの習慣はありますか。

忙しい日々の中で心や身体を落ち着かせたい時や元気を取り戻したい時こそ、香りの力を利用するのは効果的です。日本人は海外の方々と比較して香りを身に纏うという習慣をもつ方が少ないですよね。日本人は体臭が少ないのでそれを隠す必要がなかったり、周りの方々への配慮を大切にする文化が関係しているとも言われています。香水のように外へアピールするために香りを使うのもいいのですが、自分のためだけの香りを日常生活に取り入れるのも豊かな習慣ですよね。リードディフューザーで空間をお気に入りの香りで満たすのもいいですし、気分によって香りを変えたい人には、気軽に使えるアロマポットやアロマストーンもおすすめです。私自身も、授業や研究で食品や香りを扱う関係上、香水などをあまり身に着けることはできないので、生活空間の中に香りを取り入れるようにしています。でも、香りを使いたいな、という気持ちが自然と起こるのは、実際には心に余裕のあるときばかりなんですよね。そのため、香りにまで気を配れていない時期は、心に余裕がないタイミングだと気づかせてくれる合図にもなっています。それに気づいた時、精油を取り入れてみると次第に気持ちが落ち着いてきて、気分もリセットされるような気がします。

脳は全身をコントロールしている場所。香りは嗅覚を通じて脳へ直接アプローチするので、心や身体を整えるのに有効です。ホルモンバランスや自律神経、免疫系の安定にも役立つとされています。香りの魅力は特別な時間を取らなくても楽しめること。読書やテレビ鑑賞、趣味に打ち込んでいる時はもちろん、家事の間や家族との団らん、眠っている間など、日常の中に自然と取り入れることで、心身のコンディション維持にやさしく貢献してくれるのも素敵なポイントですね。

香りを科学で紐解く ーVol.2
ー ラベンダー精油の濃度によって、脳のはたらきが変化する ー ー ラベンダー精油の濃度によって、脳のはたらきが変化する ー

実験紹介 ー ラベンダー精油の濃度によって、脳のはたらきが変化する ー

 

[上図] 濃度の異なるラベンダーの香りを嗅いでいる際のP300潜時の比較

 

脳が情報を処理する速度を観察するために、P300という脳波が出現するまでの時間を指標としました。
P300が速く出現し、潜時と呼ばれる値が小さい方が、脳が情報を処理する機能が高まっている状態です。ラベンダーの精油を0.1%、1.0%、10%に薄めた香りを嗅いでもらうと、無臭の場合と比較して0.1%に薄めたものの時にはP300が速く出現しました。よって、0.1%に薄めた香りを嗅いでいる時に、情報を処理する機能が高まったといえます。
(n=13,平均)

 

 

[下図] 濃度の異なるラベンダーの香りを嗅いでいる際のP300波形の振幅の比較

 

[上図]と同様に、濃度の違うラベンダー精油を嗅いでいるときの脳の情報処理能力を比較しました。図の上が前頭部、下が後頭部を表しており、P300波形の振幅(深さ)が大きいほどトポグラフマップの中央付近の色が赤に近くなり、情報処理能力が高まっている状態です。ラベンダーの精油を0.1%、1.0%、10%に薄めた香りを嗅いでもらうと、無臭の場合と比較して0.1%と1.0%の時に特に赤い部分が観察されました。よって、0.1%と1.0%に薄めた香りを嗅いでいる時に、情報を処理する能力が高まったといえます。
(n=13,平均)

edit&interview 山本菜美子
photo 植田翔

参考文献

・小長井ちづる, 古賀良彦, ホップ精油の香りが脳機能に与える効果の精神生理学的研究―精油の濃度差による効果の相違の検討, アロマテラピー学雑誌, Vol.7(No.1) p.9-14, 2007
・小長井ちづる, ラベンダー精油が脳機能に与える影響の濃度による差異の検討, アロマテラピー学雑誌 Vol.8(No.1) p.9-14, 2008
・小長井ちづる, 食品の匂いのリクラセーション効果・脳機能賦活効果. 脳と栄養ハンドブック (古賀良彦, 高田明和編), サイエンスフォーラム p.277-285, 2010
・小長井ちづる, 香りの効果の精神生理学的検討, 香料 (299) p.51-56, 2023